Enjoyment
2008年05月23日(Fri)
そろそろTipsとか検証ネタにしようと思って撮っておいたスクリーンキャプチャがデスクトップに溜まってきた。中にはなんのネタだったか思い出せないものもあったりして、もういいかなぁ捨てちゃおうかなぁ、きっと大したネタじゃなかったよなー、みたいな気分になってくるんである。そうして闇に葬られたネタは、実は結構あったりする(笑)。

さて。
聞いた話によると、いつの頃からか自分の通っていた小学校では、運動会で順位を競わなくなったらしい。50m走もリレーもその他の対抗競技も、勝敗や順位を付けず、総合得点を競う事もなくなったそうな。負けた子供たちが可哀相だから、というのがその理由だとか。
以下は、それっていくらなんでもちょっとなぁ、と思う人間の与太話。
自分はPoserを始めるまで、投稿サイト的なものをあまり見た事がなかった。それまで中心だった趣味が創作とはまた異なる分野だったから、まあ仕方ないだろう。そこで少し驚いたのは、投稿した作品にきっちりとView数が表示されるサイトがほとんどだったということだ。見られた回数まで明示するのだから、きっとこの分野の人たちは評価に対して熱心なのだろうと感じた。そしてまた展覧会的なものが頻繁に行われていると知れば、「なんて楽しそうな」と素直に思った。「なんとか大会」みたいなものがあると、身の程知らずに気合いが入る性質なのだ。
だから自分にとって順位をつけられることは、「楽しくやるための手段の一つ」にすぎない。レンダロなどの星評価に限らずコメント内容やView数、果てはサイトのアクセス数ですら一つのバロメータになり、あらゆる評価がついて回る世界なら、それらを楽しみの一つに数えないのはもったいない。階段を一段ずつ上っていく楽しみ、そして気合い一発ジャンプして届いた距離を測る楽しみである。それが自分のスタンスというか、気構えみたいなものだ。
だけど、中には他人から評価されるのが嫌だという人もいる。創作するのは好きだけど、自分をよく知りもしない人に作品をとやかく言われたくない。低い順位をつけられるのも嫌だし、何か勘違いされるのもやっぱり嫌だ。あるいはただ単純に、他人の言葉が怖い。そう言って評価や順位付けの場をひたすら敬遠する人たちである。
もちろんそれは人の好き好きだし、義務教育じゃないんだから必ずやらなきゃいけないものでもない。だけどそういう人に理由を聞くと、大抵は「自分は趣味を楽しみながらやっているのだから、順位付けや評価なんてされたくない」と言う。その言い方にはちょっとひっかかりを覚える。なぜなら趣味を楽しみながら、なおかつ順位付けや評価を受け入れている人もこの世には存在しているからである。正しくは「自分は順位付けや評価をされると、趣味を趣味として楽しむ事が出来ない」と表現するべきだろう。楽しくやれないのは順位付けや評価といった外的要因ではなく、自分自身の中にある問題なのだ。
誰だって他人に否定されるのは辛い。一方的にけなされれば傷つきもするし落ち込みもする。嫌いな相手だったら反発もするし、好きな相手だったらいっそう悲しい。そんなことは当然である。
しかしだからといって、それであなたの何一つ損なわれるわけではないということに、あなたは早く気付くべきである。周囲の反応でいちいちアイデンティティーが揺らいでもいいのは、思春期の青少年までだ。
世の中の、たかだか趣味を同じくするだけの一人に自分の作品を全否定されたからといって、それで自分の作品を悪と決めつける必要がどこにあるだろう。評価はただ単に評価でしかなく、それ以上でも以下でもない。かけっこでビリの札をもらったからといって、リレーの選手になれなかったからといって、その子は別に哀れでもなければ惨めでもない。そう感じるのは大人の勝手な思い込みである。通知表の成績が悪かろうが給食を食べるのが遅かろうが、それで子供の尊厳を見失う必要はどこにもないのだ。自分の作品だって同じである。
他人からどれだけ「下手くそ」と言われても堂々としていればいい。「オマエの絵ツマんねぇよ」と言われても、「うわ気持ち悪ッ」と言われても、顔を上げて「うん、そうかもしれないね。でもこれが今の私の絵」と胸を張っていればいい。批判を活かすか聞き流すか、自分自身が決めればいい。
それができない人間に、他人様の絵の何が判断できるというのだろう。
自分の絵を、批評も賞讃も含めてまるごと自分の絵だと受け入れることができないのなら、他人の絵に真っ正面から向き合えるわけがない。自分の表現に責任を持てない人間が、他人への評価に責任を持てるわけがないのだ。
何かを選ぶという事は、何かを切り捨てる事である。どれだけ操作が簡単だろうが、大人数でよってたかってやろうが、自分が他人様の成果物に○×をつけている事実に変わりはない。だとしたら、誰かを切り捨てる人間は、誰かに(誰にでも)切り捨てられる事を許容できる人間でなければならない。それがフェアというものである。そして、たとえ自分が切り捨てられたとしても、それが実は「別に全然なんてことない」ことなのだと、気付いているべきなのだ。
それができて、初めて人は順位付けや他人の評価から自由になれる。そして心置きなく自分の趣味を楽しむ事ができるようになる。
少なくとも自分は、そう考えている。
