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回顧

2007年06月17日(Sun)

「強くなりたいんです」と、言われたことがある。もう何年も前のことだ。

それは相手があり、勝敗がある世界のことだったから、強さとは重ねてきた勝利の数だった。技巧に長けていることは実力を支える一つの要素でありはしたが、実力そのものではなかった。ただ今までに踏みにじってきた敗者の数と、その顔触れだけが、自分の評価を決めるのだ。

私はできるだけ彼に必要だと思われることを考えた。

──相手の動きをよく見ること。
──相手よりも不利ならば守り、有利な時に攻めること。
──与えられる打撃は必ず確実に与えること。
──あらゆるこだわりを捨てること。勝負の内容に価値などはなく、結果がすべてであること。

それはかつて、自分に向けられた言葉だった。

彼はどこか、痛みをこらえるような表情をしていた。私の言葉が彼の求める種類のものでないことはわかっていた。彼はもっと直接的な、即効性のあるアドバイスを求めていたのだ。使い勝手の良い威力の高い技だとか、あるいは相手の攻撃の対処法だとか。

期待はいつも失望と隣り合わせだ。私が直接的なアドバイスで誤魔化さずに、このような助言を与えたのは、彼に対して一縷の期待を抱いていたからだった。だが、彼がそのような助言を求めていたこと自体が、彼の限界を──いや、彼が「どう足掻いても強くなれない」ことを示しているのだと、気付かないわけにはいかなかった。

仲間の一人は彼に対してもっと冷淡だった。
「彼には勝つ気が感じられない」
というのが、仲間が彼に下した判決文だった。そしてそれは結局、私と寸分違わぬ意見だった。

本当に強くなることができる人間は、「強くなりたい」などとは口にしない。
本当に負けず嫌いの人間は、自分のことを負けず嫌いだなどとは思わない。
本当にやる気のある人間は、そもそも「やる気がある」などと言わないものなのだ。

この種のレトリックに、一体どれだけの人間が真摯でいられるだろう。

強くなりたいと望まない人間はそう多くない。人は反復し学習することのできる生き物であるから、上達を尊ぶのは人間の本能である。誰だって敗北よりは勝利を好む。あえて敗北を望むとすれば、それは他者の勝利と引き換えであるからで、みんなが勝って喜べるゲームならば自分が負けを選ぶ理由はない。それはとても健全な嗜好で、ごく当たり前のことなのだ。

そんな、誰もが思っている当たり前の事をいちいち明言すること自体が、その人間が当たり前のレベルに到達していないことを物語っている。彼は弱く、敗北していて、その状態から脱出する気力もないのである。だからこそ、その事実から目を背けている。目を背けて、「向上の姿勢」という、見た目だけは美しい鎧を纏うのである。
それは免罪符である。なぜならそれを振りかざす人間には、誰もが優しい顔をするからだ。「強くなりたい」という人間に、「負けず嫌い」を主張し、「やる気がある」と公言する人間に、

「やるべきことをやらずに戯言を抜かしている、お前は嘘つきの負け犬で、しかも卑怯者だ」

と唾を吐きかける者はまずいない。ただうわべだけの激励を贈ることが、成熟した人間たちの社交辞令である。だが実際のところ、本当に強くなる人間とは、己の弱さを知覚したその瞬間にはもう克服のための算段を練っているものである。本当に負けず嫌いの人間は、自分が負けた瞬間にはもう次の勝利に向かって走り始めている。本当にやる気がある人間は、やる気がどうのこうのと言う以前に、すでにヤッてしまっているのである。

鎧の下に隠れた偽者は、そんな単純なことにも気付かない。

和やかに歓談を続けながら、強者達の交わす言葉の端々の情報を抜かりなく「盗んで」いる。
人目につく場所での努力よりも、ずっと多くの敗北と挫折と克服を見えないところで重ねている。
敗北に対し周囲には悔しがる素振りを見せながら、胸中ではもっとずっと屈辱に震えている。そしてそれよりもなお強い勝利への執念が、その奥底で燃え上がっている。

本当に強くなることができる人間というのは、そういう種類の人間である。
彼らは「強くなること」に対して真摯で、貪欲だ。彼らはまず、自分の敗北を認め、冷静に分析することができる。そして、注意深く他者を観察することができる。自分の目指す頂上を知り、望みのために犠牲を払うことができる。そして、そう、彼らはそれ故に、他者に手を差し伸べてもらわなくとも、自ら強く「なる」ことができるのだ。彼らは自分自身を鍛えることができる生き物なのである。

だからこそ、本当に強くなることができる人間は「強くなりたい」などとは言わないのだ。それを口にすれば、自分を「強くなりたいと願っているだけの人間」に貶めてしまうことを、彼らは本能的に悟っているからである。

「強くなりたいんです」と語った彼の言葉に、おそらく嘘はないのだろう。

だが、私の目には、彼は敗北を恐れ、敗北を厭う人間であるように見えた。それは彼が熱心で、言われたことをきちんと守る真面目な人間であることよりも、ずっと決定的で、そして致命的だった。

敗北を嫌わない人間は愚鈍であるが、敗北を嫌う人間は惰弱である。敗北を拒絶することは勝利への動機にはならない。彼らはやがて勝負そのものを厭うようになる。誰かが負けるぐらいなら、みんなが勝てない方がいい、という思想である。そこに、「みんなで勝とう」「みんなで強くなろう」という発想はない。勝敗を決することが人命に、あるいは人生に関わる世界ならば、それも一つの決断と評価されるかもしれない。だが、私たちが過ごしたのは趣味の、真面目に働いていればそれほど身銭を切るわけでもない、遊びの世界であった。そんな世界でさえ敗北の屈辱に耐えられない人間に、勝利が訪れることなどありはしない。

彼は僅かに重ねた勝利よりも、圧倒的に積み上げた敗北を通して私を見ていた。そしていつしか、私の足下に築かれた、彼自身の屍の山を恐れるようになった。私がかつて、彼よりも高く自分の山を築き上げ、それを踏み越えてきたということは……彼にとっては励みというよりも、むしろ重圧であったのかもしれなかった。

彼は次第に私たちから遠ざかっていった。

それは事前に予測されたことで、もっと言えば、幾度も経験したことだった。彼は残らなかった、それだけのことだ。失望はいつも期待の裏返しであるから、胸の内にひっそりとしまい込まれる。

もう何年も前のことだ。
自分もその世界を去って、数年が過ぎた今に至り、回顧に耽る。

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確定名:Kyotaro
ネタを探しているらしい。

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